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東京高等裁判所 昭和58年(う)1148号 判決 1984年7月18日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐瀨昌三、同井出雄介、同山崎美が連名で提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官佐藤勲平作成名義の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意中不法に公訴を受理した旨の主張について(第一点)。

論旨は、要するに、宗教法人創価学会(以下学会と略称する。)、会長池田大作、会員渡部通子、同多田時子(以下同人らについては姓のみで表示することもある。)らが、被告人において「月刊ペン」誌昭和五一年三、四月号に執筆、掲載した原判決罪となるべき事実一、二各記載の記事(以下本件記事という。)によつて名誉を毀損されたとして被告人に対してした告訴(以下本件告訴という。)は、無効であり、被告人に対する本件公訴は、親告罪における訴訟条件を欠くから被告人に対しては公訴棄却の判決がなされるべきである(当審注 すなわち、これをせず、有罪の実体裁判をした原判決には不法に公訴を受理した違法があるとの趣旨と解される。)として、次のように主張する。

すなわち、本件記事が公表されるや、学会側は池田会長を中必に対処方を考え、学会関係者らと種々協議を重ねる等したすえ、数回にわたり被告人及び「月刊ペン」社社長原田倉治を告訴し、昭和五一年六月一一日被告人に対する本件公訴が提起されたものであるところ、学会側はそれと同時に示談工作を企画し、同五二年三月一二日右池田の意を体した学会理事長北條浩、同顧問弁護士山崎正友らが前記原田に金二〇〇〇万円ないし三〇〇〇万円を支払い同人に対する告訴を取り下げたのであるが、被告人は右示談の裏面工作には応ぜず、ただ、前記北條浩らから被告人が他に執筆公表した記事につきなされた追加告訴の取下げを条件としてわび状を差し入れるにとどめた。学会側は右わび状と引きかえに本件告訴の取下げ手続をとり、かつ被告人を宥恕するとの上申書を交付する旨の約定までした。

このことは、本件告訴が一時的な方便としてなされ、各告訴人の終局的な真意としては、被告人の処罰を求める意思が存在しなかつたことを示すもので、本件告訴はその意思を欠く無効のものというべきである。のみならず、本件告訴の真意は、示談工作により「月刊ペン」社をしてこのような記事を掲載した雑誌の発行を停止させるとともに、被告人の「月刊ペン」誌への執筆発表を阻止し、不当に憲法の保障する言論、表現の自由抑圧の目的を遂げるにあつたもので、このことは、学会側が差し戻し前の第一審の審理に際し、告訴権の行使を口実として検察、裁判等の全訴訟関係者に働きかけ、刑法二三〇条ノ二第一項の法意をわい曲して争点を本件記事に公共性がないとの一点に絞り、特に真実性の有無についての審理を省略せしめ、池田大作等の証人出廷を回避させることに成功したことからも明白である。このような工作は、司法裁判の冒とくであり、本件告訴が告訴権を甚だしく濫用してなされたことを示すもので、本件告訴はかかる意味においても無効というべきである。

以上のように主張する。

そこで検討すると、関係証拠によれば、学会、池田、渡部、多田らから弁護士を代理人として昭和五一年四月一二日から同年六月八日にかけ、被告人及び本件記事を掲載した「月刊ペン」誌発行人原田倉治に対し、同記事により名誉が毀損されたとして数回にわたり告訴がなされ、同月一一日検察官は被告人に対し本件公訴を提起したこと(なお、前記原田倉治については公訴が提起されるに至らなかつた。)、その後学会側と被告人側で、本件記事及び「月刊ペン」誌昭和五一年六月号誌上に掲載された記事等をめぐつて発生した紛争について示談交渉が重ねられたすえ、同五二年三月中旬ころ被告人において本件告訴人らに対し遺憾の意を表明した書面を学会側に差し入れ、学会側は前記告訴人らの作成名義の告訴取下書及び被告人に対し寛大な裁判を求める旨の裁判所あて上申書を被告人の代理人(弁護士)に交付したことが認められる。しかし、被害者が告訴した後示談が成立し告訴を取り消す例は実務上しばしば見られるところであり、本件公訴提起後の前記の経緯を含む一切の事情を考慮しても、本件告訴人らがそもそも告訴当時から被告人の処罰を求める意思を有しなかつたなどとは到底認められない。

また、告訴権の行使は、それが誣告罪を構成するような場合はともかく、一般に被害者に認められた正当な権利であり、本件記事の執筆、公表が法律上名誉毀損罪にあたるかどうかはさておき、本件記事が、池田ら本件各告訴人の名誉を侵害する事実を摘示したものであることはその記載内容それ自体から明らかであるから、学会、池田らのした告訴の主目的が仮に本件のような記事公表の防止にあつたとしても、そのことのゆえに憲法の保障する言論、表現の自由の侵害であり告訴権の濫用であるということはできない。さらに、差し戻し前の第一審において、摘示事実が公共の利害に関する事実に係るかどうか、すなわち本件記事の公共性の有無の点に争点が限定されたことは記録上所論のとおり認めることができるけれども、本件においては、右の点が否定されれば、その行為の目的が公益を図るに出たものであるかどうか及び事実の真否等の要件の判断に立ち入るまでもなく、名誉毀損罪の成立することが、刑法二三〇条ノ二の規定により明らかであるから、差し戻し前の第一審裁判所としては、まず摘示事実が公共の利害に係るものであるかどうかについて審理し、右公共性がないとの判断に達した結果、それ以上の審理に立ち入る必要がなかつただけのことであり、同裁判所の前記措置が学会側の工作によつて影響を受けたかのような所論は、もとより採用のかぎりでない。

なお、前記示談交渉の際、学会側は被告人側に対し池田に対する証人申請をしないよう求め、そのこととの関連で二〇〇〇万円、二六〇〇万円、あるいは三〇〇〇万円ともいわれる高額の金額を支払つた事実があり、示談に際し加害者側が金員を支払うのならともかく、逆に被害者側がこのように高額の金員を支払うという話し合いはきわめて異例・不明朗と評すべきものであることは、原判決が「量刑の理由」の項で判示しているとおりである。

所論は、右金員の異例の支払いこそ、被害者側が本件記事の男女関係そのものの存在を認めており、その真実が法廷で暴露されることを恐れ、池田の出廷を阻止するため学会側が被告人側弁護人らの協力を求めたことにほかならないと主張する。

しかし、関係証拠によれば、当時名実共に学会の至高の地位にあつた池田が証人として出廷すること自体、同人ひいては学会全体のイメージダウンになることを学会側が極度に恐れた結果、これを回避しようとして右のような裏面工作に及んだ事実は顕著に認められるものの、それ以上に被害者側において所論のような認識・意図を持つていたとの証拠は見あたらない。したがつて、学会側の右のような対応を、原判決がしたように被告人にとつて有利な事情として量刑上考慮することは格別、これをもつて本件告訴を無効と解する根拠とすることはできない。

論旨は理由がない。

第二  控訴趣意中事実誤認等の主張について

所論は多岐にわたるが、これを逐一、十分検討してみても、原判決に所論の主張する誤りがあるとは認められず、各論旨はいずれも理由がない。

所論にかんがみ、以下若干補足する。

一  本件摘示事実の公知性について

(第二点の二イ5、なおロ12参照)。

論旨は、要するに、被告人が本件記事に摘示した男女問題、特に池田と渡部との関係は、原島嵩、加藤英典、山崎正友らの原審における各証言により明らかなように、一般言論界においては勿論、学会内部においても広く知られていた事柄で、すでに社会公知の事実となつていたものであるから、これをいまさら被告人が社会に公表しても名誉毀損罪にいう法益の新たな侵害がなく、犯罪は成立しないのに、被告人に対し同罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで、池田のように、信仰に支えられた有力な宗教団体のほぼ絶対的な指導者の立場にあるものの男女関係の風聞のたぐいは、次第に増幅され流布して公知の事実になりやすいという事情のあることを考慮にいれて記録を精査し、検討してみたが、その真否はともかくとして、本件記事に摘示された所論の事実が、その執筆、公表の時点で、それが摘示されたからといつて、あらためて、著しく被摘示者の名誉を侵害することとはならない程度に、世間一般ないし少なくとも相当広範囲の不特定多数の者の間に知られていたと認めうるほどの的確な証拠は見あたらない。

右の意味における公知性が存在したとすればその立証は比較的容易と思われるところ、所論指摘の各証人の証言は、きわめて根拠の薄弱なものであるか、原判決も説示するように他の証拠と対比して措信しがたいものであるから、これらの証言により、本件記事の摘示事実が、その公表当時新たな名誉侵害を伴わないほどの公知性を取得していたとは到底認めがたい。

これらの点に関し原判決が「摘示事実の公知性について」の項において詳細説示するところは、当裁判所も正当としてこれを是認することができる。

二  本件摘示事実の真実性について

(第二点、第四点の一)。

論旨は、まず本件記事内容が真実であることの立証については、いわゆる「自由な証明」で足りるとし、これによれば本件記事の真実性は十分に立証されているのに、原判決はこれによらず、しかも採証法則上きわめて偏向した採証方法により、本件記事の真実性を否定し去つたとして、大要次のとおり主張する。

表現の自由を保障する憲法二一条に基づき追加された刑法二三〇条ノ二(当審注 所論に二二〇条の二とあるのは誤記と認める。)第一項の立法精神にかんがみれば、同項に要求されている摘示事実が真実であることの証明は、摘示者が処罰されないためのものであるから、処罰するための立証方法を厳格にした「伝聞排除の原則」を適用しない、いわゆる「自由な証明」で足りると解すべきである。

被告人側の証人小澤ヨネ、飯野なみ、甲賀平、加藤英典、原島嵩、山崎正友らは、いわば池田学会の教義教説に疑問を抱き、信仰上学会を脱会したもので、私情に駆られて脱会し池田らに反抗した者たちでなく、その証言は十分に信用できるのであつて、右証言やその他差し戻し前の第一審から原審に至るまでの間になされた幾多の証拠調の結果によれば、池田と渡部の関係、池田と多田の関係、池田と芸者石川孝子、同ちか子との関係、池田と外人女性との関係、池田とその他の女性関係等が明らかとされ、「自由な証明」で足りる以上本件記事の主要な部分の真実性は十分立証がなされたというべきである。

しかるに、原判決は「自由な証明」で足りるとの基調を離れ、かつ、告訴人で被害者の立場にあるものとして当然本件記事に摘示された事実等を否定することが予想された池田、渡部らの証言をそのまま取り上げ、他方、本件記事に表われた事実を裏づける前記被告人側の証人の各証言については、同人らが反学会的立場の者であるためその証言には信用性がないとしてこれを単純かつ全面的にいつしゆうするという、一方的で偏ばな採証方法を採り、本件記事に摘示された事実の真実性が証明されたことを認めなかつた。したがつて、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな採証法則の違反及びこれに基づく事実誤認がある。以上のようにいうのである。

そこで以下検討する。

1所論は、まず、刑法二三〇条ノ二第一項にいう事実が真実であることの証明については、同項の立法精神にかんがみ、「自由な証明」をもつて足りると解すべきであると主張するが、仮に所論のとおり「自由な証明」をもつて足りるとしても、記録を精査すると、所論のように本件記事の真実性が十分に立証されたと解しうるかについては、そもそも多大の疑問がある。

のみならず、個人の名誉はもとより基本的人権に属する人格権として厚く保護されるべきものであるところ、その保護のため本来なら名誉毀損罪にあたるべき行為を、表現の自由保障という憲法上の要請のため一歩譲つて一定の要件のもとに罪とならない場合を設けたのが刑法二三〇条ノ二第一項の立法趣旨であり、かつ、同条項は、摘示事実の真否がいずれとも確定されなかつたとき、「疑わしきは被告人の利益に」の一般原則の例外として、被告人の不利益に、すなわち事実が真実であることの証明がなかつたものとしての判断を受ける、とする趣旨のものである(東京高等裁判所昭和二八年二月二一日判決・刑集六巻四号三六七頁参照。

個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和均衡を図つた同条項の立法趣旨からすれば、表現の自由のほうを重視する立場から、刑法二三〇条ノ二第一項の真実性の証明に限り、刑訴法三二〇条一項(伝聞排除)の規定の適用を除外して、被告人の立証の度合いを一般原則の場合より緩和する立法政策もありうるであろう。

しかし、現行法は、刑法に前記のような挙証責任の転換の規定を設けただけで、刑訴法に特段の規定を置いていないことにかんがみれば、右真実性の立証についてのみ「自由な証明」で足りるとしているとは解されない。

なお、同条項の真実性の証明について「自由の証明」で足りるとする学説は、その具体的内容として、「伝聞排除の原則」の不適用すなわち伝聞証拠の無制限許容だけでなく、心証の程度もいわゆる「証拠の優越」の程度で足りる、としているところ、後者について「合理的な疑いをいれない程度のものであることを必要とする。」と解すべきことは、すでに東京高等裁判所の判例とするところである(東京高等裁判所昭和四一年九月三〇日判決・刑集一九巻六号六八三頁)。

さらに、所論が引用し、高く評価するとしている最高裁判所昭和四四年六月二五日大法廷判決(刑集二三巻七号九七五頁)は、名誉毀損被告事件の審理において、被告人側の証人が、問題の記事内容に関する情報を市役所の職員から聞きこみこれを被告人に提供した旨を証言したのに対し、これが伝聞証拠であることを理由に検察官から異議の申立があり、第一審裁判所はこれを認め、異議のあつた部分につきこれを排除する旨の決定をし、その結果、被告人は、右公訴事実につき、いまだ右記事の内容が真実であることの証明がなく、また、被告人が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたと認めることはできないものとした事案につき、同証人の立証趣旨中には、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたことを含むものと解されることを理由として、「してみれば、前記吉村の証言中第一審が証拠排除の決定をした前記部分は、本件記事内容が真実であるかどうかの点については伝聞証拠であるが、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたかどうかの点については伝聞証拠とはいえないから、第一審は、伝聞証拠の意義に関する法令の解釈を誤り、排除してはならない証拠を排除した違法があり、これを是認した原判決には法令の解釈を誤り審理不尽に陥つた違法があるものといわなければならない。」

と判示しているが、この判断は、真実の証明について「伝聞排除の原則」の除外がないこと、すなわち「自由な証明」で足りるとする見解はとらないことを当然の前提としていることに留意すべきである。

2また、所論は、原判決の採証方法が一方的で偏ばなものである旨主張するが、原判決が、本件における証拠、とりわけ証言の信用性を判断するにあたり、学会といわゆる反学会派に属するものとの間に激しい対立を生じているという背景に十分留意し、このような場合には、一般に、証言内容に党派性が反映しがちであるから、裏づけのない証言の信用性を判断するにあたつては、おのずから慎重な態度をとらざるをえないし、複数の証人が同様の証言をしている場合でも、立場が同じ者であるときは、証言内容に党派性が反映していないかどうかをいつそう慎重に検討する必要があると説くところは、本件事案の性質に照らしてまことに相当であり、原判決が主要な証人の証言について個別的に検討し、その信用性等について説示するところも客観的かつ妥当なものと認められるから、当裁判所としては、いずれもこれを肯認することができる。

例えば、原判決も指摘するように、当事者が証拠調に最も力を注いだ池田と渡部との関係について、同人らの特別な関係をうかがわせる唯一ともいえる有力な直接の目撃証拠として証人小澤ヨネ、同飯野なみの証言があるが、その内容はいずれも「昭和二九年秋に渡部の実家である大宮市所在の松島勇三方三畳間において、池田が風呂上がりらしく全裸で立ち、その前に渡部がバスタオルを持つてひざまずいている現場を目撃した。」というものである。その証言内容について検討すると、右小澤、飯野はそのころ学会員として折伏などの学会活動に熱心に従事していたもので、他の会員とともに布教活動の地区拠点であつた松島方へ足しげく出入りしていたが(小澤は毎日のように行つていた、という。)、当日夕刻松島方を訪れ、小澤はコートとハンドバックを、飯野は手提げ袋を問題の三畳間に置き、しぼらくして帰ろうとし、右手回り品等を取るため三畳間のから紙(ないし曇りガラス入りのガラス戸)を開けたとき、前記のような状況を目撃した旨、そろつて証言していることが認められる。

ところで、右のように池田と渡部が、当時学会関係者が自由に出入りしていた手狭な松島方で、しかも訪問者二人の手荷物等が置いてあり、鍵もかかつていない三畳間に他見をはばかる姿で居るところを目撃されたということ自体あまりにも不用意かつ大胆すぎ、甚だ不自然の感を免れない点において、そもそも右各証言には合理的な疑問を抱く余地があり、それが昭和二九年秋ころという、本件記事が執筆公表されるよりも二〇年以上前のことであるという時日の経過なども考えると、これを採用することはもとより相当でないと思われるのであるが、原判決は、前記目撃状況に関する小澤、飯野らの証言内容が詳細で具体的であること等の点を評価し、その信用性等についてあらゆる角度から詳細に検討したうえで、結局右証言内容に添う事実の証明があつたとするに足りないと説示しているのであり、右は、原判決の採証判断がきわめて綿密かつ慎重になされていることを示すものである。

右のほか、池田と渡部の特別な関係をうかがわせるものとして、原島嵩、内藤国夫、羽柴増穂その他の各証人の供述する関係諸事実は、仮にそれが真実であつたとしても男女間の特別な関係を推認させるにはほど遠いものであつたり、情報提供者の特定に欠けるものであるなど、いずれも本件記事の真実性を認めるに足りるものでなく、公刊物中に表われた渡部の座談会における発言、同人自身の執筆記事などについても、一部に誤解を招きかねない表現があるにせよ、男女関係の存在に結びつけるには飛躍がありすぎることなどは、原判決が詳細に説示するとおりである。

そのほか、池田と多田の関係、池田と石川の関係、池田とその他の女性関係等について関係証拠をつぶさに検討してみても、原判決が説示するところはすべて正当として首肯することができるのであつて、そこで男女関係を示唆するものとして関係証人によつて指摘された諸事実は、前示の池田と渡部の関係以上に間接事実としても根拠の薄弱なものであつたり、うわさ、風聞のたぐいを出ないものであつたり、事実そのものが疑わしく証言内容の措信しがたいものなどに終始し、到底その真実性が立証されたとはいいがたい。

以上要するに、原判決に所論のような採証法則の違反及びこれに基づく事実誤認があるとは認められない。

三  本件摘示事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたとの点について(第三点、第四点の二)。

論旨は、要するに、仮に、本件記事の事実が真実でなくても、被告人は、調査収集した種々の情報資料によりその事実を真実と信じていたもので、被告人がそのように信じたことにつき相当な理由があるから、被告人には本件事実摘示について名誉毀損罪の故意がなく、犯罪は成立しないし、右相当性の立証についてはもとより「自由な証明」「証拠の優越」でも足りるところ、本件においてはその立証もできているから、被告人を無罪とすべきであるのに、原判決が被告人側の全立証の結果を排斥し、「確実な資料根拠に照らして相当な理由があつたと認めることはできない」と判示して、結局被告人を有罪としたのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな採証法則の違反、事実誤認であるとして、大要次のように主張する。

すなわち、被告人は、昭和三二年以降同五〇年すぎまでの約二〇年間にわたり、執筆者として広く綿密に調査して諸情報を収集し、それが被告人の入手したいわゆる安藤情報(安藤こと武井保から得た情報)と対比しても内容がほぼ一致していることを確認し、本件記事の主要が事実についてほとんど誤りのないことの確信を得たうえで、本件記事を執筆したものであるが、被告人は、昭和三五、六年ころ学会に対する批判的著書を発行したことにより、いわゆる言論弾圧を受けたため本件記事の対象者などに直接裏づけ調査をしてその確認を得ることは事実上不可能であつた。したがつて、仮に事実に相違点があつたとしても、当時の悪環境下にあつて以上の調査資料を比較考量したうえで、本件記事の事実を真実と信ずるに至つたことは相当な理由があつたというべきである。しかるに、原判決は、被告人の収集した各情報を挙示検討して、それらがいずれも本件事実を信したことが相当であるという根拠にならない等と説示しているが、その判断は、甚だ主観的かつ専断的、もしくは不合理、違法な採証方法に基づくもので到底首肯できるものではない。

また、原判決は、被告人が事前に弁護士斉藤一好に相談し意見を求めその見解に安んじて本件記事の執筆をしたことに対し正当な評価をせず、弁護士の判断は名誉毀損罪の成否につき「法律面」だけに関するものであつて、「事実面」に関するものでなく、摘示事実の真実性を信ずる相当な理由を基礎づける根拠にならないと判示した。しかし、刑法の解釈適用は法を大前提に事実を小前提として初めて三段論法式に結論として回答が出せるのであり、一般法律相談でも常に法はむろん事実をも究明したうえで回答するものであるから、原判決の右判断は理論的にも成り立たない。

以上のようにいう。

そこで検討すると、所論も引用する前記最高裁判所大法廷判決が示すとおり、刑法二三〇条ノ二第一項にいう「事実が真実であることの証明」がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損罪は成立しないものと解されるところ、右相当性の立証に限つて所論のように「自由な証明」「証拠の優越」で足りるとすべきいわれはなく、原判決が「第三 真実性を信ずるに足る相当の理由について」の項において、本件記事の直接的な契機となつたいわゆる安藤情報や被告人の弁護士に対する相談、被告人が右安藤情報を知る以前から入手していたという情報等が、いずれも被告人において真実性を信ずるに足りる相当な理由のあることを基礎づける資料・根拠とはいえないものであることなどにつき詳細説示するところは、いずれも正当として当裁判所もこれを是認することができ、原判決に所論の誤りがあるとは認められない。

これを原判決が説示するところのほか、被告人の認識の面から若干検討し、補足すると、

1差し戻し前の第一審において被告人側の同意により証拠として採用された被告人の検察官に対する昭和五一年六月七日付供述調書(原判決挙示の、「被告人の検察官に対する供述調書四通」のうちの一通)中、「問題になつている部分の大半は安藤龍也こと武井保からえた情報資料に基づいている訳ですが、私としてはこの安藤の情報資料が真実であると思つて私の記事に取り入れたものです。しかしながらその情報資料の裏づけといいますか事実の確認という点になりますと手落ちがあつた事は認めざるを得ません。前にも話した通り一番最初に安藤から来た手紙を斉藤弁護士に見せて相談しただけであつてそれ以外にこの安藤の情報資料が真実であるかどうかについての確認を行いませんでした。」「自分で考えても事実の確認のための努力という点では不十分であつたと思います。」等との供述記載があること、

2差し戻し前の第一審第一三回公判廷において資料の裏づけ、確認に関する裁判長からの発問に対し、被告人は、「……それは、先程申し上げましたように、与えられた時間内におきましては、最善最大の努力をしたと、私は思つておりますが、なお、裁判長の御指摘のように、当たるべきいろんな余地が残されておつたのではないかという御指摘に対しては、私はそのように考えます。」と答えていること、

3本件公訴提起後学会側と被告人側でなされた示談交渉の結果、前記第一において判示したとおり、被告人から本件告訴人らに対し遺憾の意を表明した書面を学会側に差し入れているところ、その記載は「月刊ペン昭和五一年三月号、四月号及び六月号の創価学会特集記事中には、事実の確認に手落ちがあり思いちがいがありました。当誌としては、マスコミ機関に課せられた義務として公共の利益のため、正当なる批判記事の掲載は、折にふれて掲載する所存ですが、行過ぎのあつたことに対しては、卒直に遺憾の意を表明致します。」というものであること、を総合すれば、被告人自身も、本件記事の執筆公表にあたり、その摘示事実が真実であることについての資料・根拠に確実性の欠けていることを認識していたものと認めるのが相当であり、所論のように、調査の理想からみて多少手落ちがあつたとする被告人の謙虚さの表れとのみみることはできない。

また、所論は、弁護士との相談に関する原判決の説示を論難するが、仮に被告人がその主張するように斉藤一好弁護士から事前に助言を受けたとしても、関係証拠によれば、前記1の被告人の供述の記載からも明らかなとおり、被告人が同弁護士に見せた資料は、一番最初に安藤から来た手紙だけであつて、同弁護士は被告人が本件記事の真実性の根拠とした全資料を把握していたわけではなく、せいぜい、被告人から意見を求められ、示された資料の範囲内で自己の法律的見解を述べたものにすぎないと認められる。そのような助言が違法性の意識といつた別の局面で問題になることはありえても、右助言そのものが、名誉毀損罪の故意を阻却すべき、事実を真実と誤信したことについての相当性を基礎づける資料、根拠となりうるものでないことは、原判決が説示しているとおりである。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(鬼塚賢太郎 阿蘇成人 中野保昭)

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